【平成30年史 バブル、それから(2)】日本は米にはかなわない 米国と … – BIGLOBEニュース

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 米大統領ドナルド・トランプの家族が居住し、今も厳重な警備が敷かれるニューヨークのトランプタワーから歩いてわずかの場所に「プラザホテル」はある。

 眼下にセントラルパークを眺め、一時はトランプが所有したこともある白い瀟洒なホテルは、日本のバブル経済の端緒が生まれた場所だ。

 昭和60(1985)年9月22日、このホテルの一室で日、米、西独、英、仏の蔵相と中央銀行総裁が記念撮影に応じていた。

 巨額の貿易赤字を抱えた米国との不均衡を解消するため、5カ国が政策協調した「プラザ合意」。米国の輸出に有利なドル安に誘導するため、各国がドル売りの協調介入をすることが事実上決まった。

 日本経済を支えていた自動車や電機などの輸出産業には痛手となることは目に見えていた。日本から出席していたのは蔵相の竹下登。小柄な竹下は頭に手をかざし、隣にいた約2メートルの米連邦準備制度理事会(FRB)議長のボルカーとの身長を比べるようにおどけてみせた。

 日本は巨大な米国にはかなわない−。現場にいた記者たちには、そんなメッセージに見えた。

「対日報復」求め

 昭和から平成に移る寸前。当時の状況は現在と重なるところがある。

 日本からの小型車輸出攻勢に、米国の自動車産業のビッグスリーが経営危機にひんしていた。合意半年前の60年3月には、深刻な失業問題を抱えた米上院が、大統領のレーガンに対日報復措置を求める決議を全会一致で可決していた。

 米財務長官のベーカーが遅れて到着して始まった会議は、各国の通貨をどこまでドルに対して高くすべきかをめぐって議論が白熱した。欧州勢にしてみれば「貿易摩擦は日米の問題」だった。欧州勢が自国通貨をドルに対して10%高くするなら日本は15〜20%高くすべきだと主張していた。

 会議の途中、攻勢に耐えきれなかったのか、竹下が口を開いた。

 「自分は円高大臣といわれている。円が強くならないと、大臣をやめられない」。だが、通訳は「総理になれない」と訳した。各国代表は、竹下の決意と受け取った。

ハワイで“密会” 

 プラザ合意には伏線があった。

 中曽根康弘政権下で大蔵省の財務官を務めていた大場智満は、今年4月、首相官邸で開かれた日米経済対話の初会合で、米副大統領のペンスと笑顔で写真撮影に応じる副総理の麻生太郎の姿をテレビで見ながら、34年前の58年秋に開かれた麻生の結婚式を思い出していた。

 「娘が結婚することになった。式に出てほしい」

 大場はかわいがってもらっていた元首相の鈴木善幸に招待された。鈴木の娘婿こそ若手のホープとして注目を集めていた麻生だった。

 だが式の当日、大場は式場ではなく、東京から約6千キロ離れた米ハワイ・ホノルルに向かっていた。

 「役所(大蔵省)やマスコミには式に出ることにしてハワイに向かった。麻生さんには悪いことをした」と振り返る。ハワイで大場を待っていたのは米財務省の高官とFRB議長のボルカーだった。

 彼らは「11月のレーガン大統領訪日時に、日本の金融規制緩和や資本市場開放を求める」と明かし、大場に調整を求めた。

 レーガン政権は多額の貿易赤字を削減するため、自動車分野を中心に交渉を続けていた。だが、日米の市場での競争力の差は明らかだった。不均衡の解消には円高誘導が必要と判断していた。ターゲットは日本の金融市場に絞られていた。

     ◆

 プラザ合意の波紋は内外に広がった。

 昭和60年9月22日のプラザ合意から2日後の深夜、米国から帰国した財務官の大場智満が自宅に戻ると、妻が「宮沢(喜一)さんから電話があった」と告げた。「何時でもいいから電話をしてくれと…」

 宮沢は当時、自民党の総務会長。財政全般に絶大な発言力があった。時計は午前2時を指していた。大場はためらったが「1回だけ鳴らしたら切ろう」と受話器を取った。

 「ジーン」と呼び出し音が鳴るやいなや「はい、宮沢です」。本人だった。合意声明に盛り込まれた政策について切り出した。

 「(合意の)英訳と和訳のニュアンスが違うんじゃないか」。和訳は地方自治体が公共投資を増やすときに国は「適切」に処理するとしていたが、英訳では「好意的に」処理すると強めに表現されており、海外メディアもそう報じていた。

 英語に強く財政通の宮沢ならではの指摘。だが、大場は「自分に話が通っていなかったのが不満だったのでは」と考えた。

 円急騰240→180円突破

 市場の反応も強かった。プラザ合意前に1ドル=240円程度だった円相場は、61年1月には200円程度まで上昇。円は瞬く間に20%程度、ドルに対して高くなっていた。大蔵省は「適切な水準」とみていた。だが、想定外の“事件”が起こる。

 1月、米ニューヨークのコロンビア大で講演した蔵相の竹下登は、現地の空港で日本の記者につかまる。

 「1ドル=200円を割ってもいいんだ」

 そうした趣旨の竹下の発言が新聞に掲載されると、為替相場は一気に190円台、2月には180円を突破する。当初は「貿易摩擦解消のため」と円高を受け入れていた経済界からも批判が噴出した。

 自動車や電機など輸出企業を中心に業績悪化の懸念が台頭。円高不況が現実味を帯びてきた。

 講演を得意としていた竹下だったが依頼は激減。周囲に「これじゃあ『竹下登』ではなく、『円上り・竹下下る』だ」ともらした。

 円の急騰に対抗する景気のてこ入れに日銀がとったのが、当時としては異例の金融緩和だった。

 61年1月に公定歩合(日銀が金融機関にお金を貸し出す際の金利)を5・0%から4・5%に引き下げたのを皮切りに、62年2月には当時史上最低の2・5%に引き下げた。

 61年6月に財務官に就任した行天豊雄は「当時の雰囲気はいよいよ日本は金融政策で景気刺激に足を踏み入れたという感じだった」と振り返る。結果的に金融緩和でだぶついたマネーは資産マーケット、特に不動産に流れ込んだ。バブルの始まりだった。

 市場調節“トラウマ”

 国際協調も日銀の手足を縛っていた。

 日銀はプラザ合意から約1カ月の60年10月、金利低下を見越した市場の動きを牽制するため短期金利を高めに誘導する市場調節を実施した。

 この動きにプラザ合意で金利の引き下げを約束していた米や西独などが反発。総裁の澄田智のもとにはFRB議長のボルカーらから直接、問いただす電話がかかった。この“トラウマ”が後に、日銀が金利引き上げに踏み切りにくくなる遠因になったとの指摘もある。

 日銀金融研究所所長などを歴任した翁邦雄は「当時は物価が上がっておらず、金融引き締めに転じることはできなかった」と振り返る。

 確かに、62年の消費者物価は前年比0・3%の上昇にとどまり、景気の過熱感には乏しかった。だが、澄田の後任の日銀総裁となる三重野康は60年以降から「乾いたまきの上に乗っているようなものだ」と危機感を抱いていた。当時は旧日銀法下で政府が総裁の解任権を持っており、日銀は本店の所在地から“大蔵省本石町支店”と揶揄されていた。

 米国と大蔵省。日銀を取り巻く2つの“外圧”。バブルの条件が整った。(敬称略)


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