悲劇から30年、 チェルノブイリの実相 – 日本経済新聞

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死の街」はいま

 シラカバの木を車の窓越しに眺めながら、車はウクライナの首都キエフから北上を続ける。車で約2時間。チェルノブイリ原発から30キロメートルほど離れた検問所に到着した。検問所の向こうは立ち入り禁止区域だが、事前にウクライナ政府に申請しておけば、パスポートを見せれば通過できる。

 30キロメートル圏内では、▽植物や建物に触らない▽地面にカメラなどを置かない▽地面に座らない――などのルールが設けられている。見学者が放射性物質の影響を受けるのを防ぐほか、放射性物質が人やカメラに付いて30キロメートル圏外に出るのを防ぐためだ。

 検問所は原発から10キロメートルの地点にもある。ここを通過し、しばらく進むと「レッドフォレスト」がある。大量の放射性物質により森林が枯れたことからこう呼ばれている。現在は元の森林の姿に戻っているように見えた。ここを抜けると目の前にチェルノブイリ原発の姿が広がった。

 4号機が間近に見える広場には、事故から20年後に設けられた記念碑があった。4号機、記念碑をバックに観光客は普段着のまま記念撮影をしていた。チェルノブイリ原発の見学者は2015年に1万7000人、前の年に比べて3割増えた。世界を震え上がらせたチェルノブイリ原発は事故の教訓を伝える象徴として、また今なお続く廃炉作業の最前線として、多くの人を集めていた。

4号機を背後に記念撮影をする観光客。事故現場には似つかわしくない「笑顔」がそこにはあった

4号機を背後に記念撮影をする観光客。事故現場には似つかわしくない「笑顔」がそこにはあった

石棺

 爆発事故で原子炉建屋の上部や一部の側面が吹き飛んだチェルノブイリ原発4号機は、コンクリートや鋼材で「石棺」を築き、放射性物質の外部への飛散を防いだ。わずか半年の突貫工事。耐用年数は30年で、原子炉建屋は風雨にさらされヒビが入るなど老朽化が激しい。そのため4号機の隣では、アーチ型のシェルターの建設が進む。シェルターで4号機を覆う計画で「再石棺」とも呼ばれる。

4号機(左)とアーチ型シェルター(右)の間でレールを建設中。年内にもシェルターの移動を開始する計画

4号機(左)とアーチ型シェルター(右)の間でレールを建設中。年内にもシェルターの移動を開始する計画

 シェルターは高さ109メートル、長さ162メートル、幅257メートル。シェルターを4号機へと横滑りさせるレールを建設中で、完成後、シェルターを動かし4号機を覆う。作業は2017年に完了する予定だ。

原発内部

マウスまたはフリックで上下左右、
自由に周りを見渡すことができます。

 原発内部は白衣を着て見学する。4号機と同じ設計の2号機の制御室を見たが、システムは一部動いていた。

 2号機の制御室を出て3号機に入る。長い通路を歩くと3号機と4号機の壁に到達した。そこには事故で亡くなった職員の慰霊碑があった。発電所の広報担当者は「遺体は見つかっていない」と説明する。4号機に遺体があるとみられるが、放射線量が高くていまだに誰も近づけない。事故の傷痕がこうしたことからも見て取れる。

ここにキャプションが入ります。ここにキャプションが入ります。

捨てられた街「プリピャチ」

開園を間近に控えていた遊園地。観覧車はさび付いていた 1

30年前、多くの作業者がこの病院に運び込まれた 2

プリピャチの中央広場には多くの観光客が団体で訪れていた 3

誰も乗ることがなかったゴーカート 4

原発城下町として多くのマンションが建てられていた 5

1開園を間近に控えていた遊園地。観覧車はさび付いていた

230年前、多くの作業者がこの病院に運び込まれた

3プリピャチの中央広場には多くの観光客が団体で訪れていた

4誰も乗ることがなかったゴーカート

5原発城下町として多くのマンションが建てられていた

マンションの屋上には旧ソ連時代のエンブレムが付けられていた

マンションの屋上には旧ソ連時代のエンブレムが付けられていた

 マンションの屋上には、今も旧ソ連時代のエンブレムが残る。チェルノブイリ原発から5キロメートル圏内の「プリピャチ」。事故前には約5万人の住民が住んでいたが、原発事故で誰も戻れぬ街になってしまった。

 学校や病院、文化ホール、開園を間近に控えた遊園地――。様々な施設が残っているとはいえ、建物の一部が壊れるなどしていた。ウクライナ政府に住民を帰還させる計画はない。



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